第二章 助けて
完璧な顔のあの人が、じっと私を見ている。サムさんが何を考えているのか、どんな感情を抱いているのか全く読めなくて、オフィスのみんなと同じように恐怖を覚えた。どうしよう……今のサムさんが、昔会ったサムさんと同一人物なのか自信がない。最後に会った時は、なくなりそうなくらい目を細めて顔一杯に笑っていた。でも、今は、ボトックス注射を打ちすぎた人みたいに表情が固く、動きがない。しかめっ面でさえも、見たことがない。まるで、感情を隠してるみたいに。
あなたのことをよく知ってるって伝えたら、馴れ馴れしく思われるかな……。
ダメ。止めておこう。
「こんばんは、サムさん」
この状況で何を話せばいいか分からなくて、まず丁寧に挨拶をした。でも、自然に手を合わせてワイ*をすることができなかった。みんなが恐れるあのレディ・ボスは手を合わせて、ワイで返事をしながら、こちらを見た。
「サムさんのインタビューを読みました。それで、動物が好きなんじゃないかと思ったんです。特に犬が」
「ええ、確かにインタビューは受けているわ。でも犬が好きなんて、言ったことない。いつも猫が好きって答えてる」
「えっと……見間違いかもしれません」 髪を耳に丁寧にかけながらそう言った。
「犬が好きでも、猫が好きでも、結局動物が好きってことですよ」
「意味が分からない。ねぇ、私たちどこかで会ったことある?」
その質問で私の心臓は高鳴り、憧れの人と直接目を合わせた。何秒間かお互いをじっと見つめていたけれど、先に負けたのは私だった。
ダメだ。あまりにも目力が強すぎる。
「ないです。多分」
「多分? それってどういう意味?」
「私は今日入社したばかりです。サムさんに少し会いましたが、多分サムさんからは私が見えなかったと思います」
その答えを受けてこの美しい人は、自分も納得したように頷いた。
「なるほど、あんたは新入社員なのね」
「あんた」の言葉を聞いた途端に、みんなが恐れているレディ・ボスのイメージがなんだか可愛く感じてきた。つい無意識に笑顔が出て、じっと彼女を見つめると、美しいレディ・ボスは目を丸くした。そして、急によろめいて後ろへ倒れかけた。
「大丈夫ですか!?」
手を伸ばして助けようとしたけど、素敵なその人は素早く私の手をかわして、まるで触られたくないみたいに両手を後ろに置いた。
「大丈夫。お酒か、トイレの匂いのせいで目が回っただけ」
そう言って、美しいレディ・ボスは立ち去ろうとした。でも、ふと立ち止まって私の方を向いた。
「本当に、会ったことがないかしら?」
「もしそうだとしたら、絶対にサムさんなら覚えていると思いませんか」
「そうね」
ちょっと心に引っかかっている様子だったけど、美しいボスは出ていった。新入社員だから明るく振る舞おうと頑張っていたけれど、ボスがいなくなった途端、私は目眩を起こしたように床に倒れこんだ。
やられた……いきなり会えたから、心の準備をしてなかった。しかも、いっぱいお話できちゃった。
話していた時、私の心臓の音が大きすぎて、美しいあの人に聞こえてしまわないか怖かった。なんだか嬉しくてドキドキして、ずっと憧れていたアイドルと色んなお話ができたような気持ち。今日は話せるチャンスがあるかも、と期待していたけれど、こんな喋れるなんて想像してなかった。
良かったなぁ……ここで働くことにして。
「ニコニコしてるわね。会いたがってた人に会えたの?」
家で私を待っていたお母さんは、私の周りの匂いを嗅いで、手をあおいだ。
「お酒を飲んだの?」
「会社の付き合いでね、お母さん」
私は満面の笑みでそう話して、頷きながら最初の質問にも答えた。
「サムさんに会えたよ。すごく緊張した」
「あなたのアイドルに会えたから、興奮してたのね。それで、どうだった?レディは変わらず?」
「まぁ……」
なんて答えたらいいか分からなくて、少し目を背けた。
「時間が経つと、人はみんな変わるよ。それに、あの人の笑顔を初めて見た日からずっと会っていなかったから、サムさんのことを私はそんなに知らないのかも」
「あなたは誰よりもあの方のことを知っているわ。レディに関する記事が載っていたら、全部切り取って、ファイルに保管しているじゃない。もし、いつかレディに会うことができたら見せたいわ」
「そんな日は来ないよ、絶対。レディが私と仲良くしてくれるなんてあり得ない。あの人は、テレビで見る有名な女優さんみたいな存在で、私はただのファン。私にできることは、あの人の生き方を真似して、刺激を受けて自分のモチベーションにするくらい。それで十分」
「お母さんには、あなたが悲しがっているように見えるわ。まるで失恋してるみたい」
「失恋なんてしてない。今日は、サムさんといっぱい話せたから」自慢げにそう話した。
「でも、きっともう話せるチャンスがないよ。あの方はボスで、お母さんの娘はただのしがない新入社員だから」
「レディはそんな高慢な人じゃないと思うわ。卒業してからも、よく学校に来てトラの様子を聞いていたし。あ、そうだ。トラが死んじゃったこと伝えたの?」
「サムさんは、私のことなんて知らないから」
「知っているわ。だって、サムさんが笑ってくれたって言ってたじゃない。サムさんがあなたの頭に手を置いて、撫でてくれたって嬉しそうに話してくれたわよね」
「あれは十年前の話だよ。サムさんはもう私のこと覚えてないの」
「私の娘だってことを言ってみたら?」
「それを言うと、この人馴れ馴れしいなぁ……って思われそうだから、嫌」
「考えすぎよ。モンらしくないわ。まぁ、好きにしなさい。レディのことになると細かいわね……もう遅い時間よ、シャワーを浴びて、寝なさい。また明日話しましょう。お酒の匂いがするわ」
私は頷いて、シャワーの準備をした。私の家は小さくて古い。お母さんは女性用務員で、給料もそんなに多くない。だから、こんな家を借りて暮らしている。前と変わったことを挙げるとしたら、大人になったからお母さんの負担を減らしてあげられることかな。今月は人生で初めてのお給料がもらえるから。
今日は予想外なことがいっぱいあった。私は思わず、サムさんのインタビュー記事をまとめているファイルを手に取った。こんなに有頂天になっている自分の大ファンがいるなんて知らないだろうな。そう……十二年前から……ずっと。
あの時、私は小学四年生で、サムさんは高校三年生。計算してみると八歳離れていて、年齢にかなり差がある。サムさんは一番入学が難しいと言われている女子校に通っていた。その学校はお金持ちの子、もしくは王族の子じゃないと入学のチャンスがほとんどない。
そんな風に入学が難しい学校というのは、人生の選択にも大きな影響を与える。
もし、トリアム・ウドム*みたいな良い学校で勉強したら、出会える友達は医者か、政治家か、もしくは国を発展させるような重要な人物になると思う。もし、学費の高い私立学校で勉強したなら、お金持ちの友達に囲まれるはず。
サムさんの学校もそう。偉い人の子どもや著名人に繋がりがある家族の子がたくさんいて、学校のみんなが上流階級の中でコミュニティを作っていた。
一方で、私とお母さんはその学校の一部だった。でも、階級は違う。管理作業員のお母さんは学校を掃除したり、花壇に水やりをするお仕事。私は普通の学校に通っていて、授業が終わってから、毎晩お母さんが働いている学校に来ていた。その学校にはいろんな人がいて、みんなそれぞれのグループを持っていた。学生の中には、悪い言葉を使っている人もいて、膝まで届く長いスカートを履いたお姉さんが、ひそひそと他校の男の子について話す姿を見るのが好きだった。
高層社会の中だとしても、性別についてはまた別の話……ホルモンが関係してるって言うし。
その学校は女子高で、男の子がいないから同性同士で付き合う子もいる。校内では、手を繋いでイチャイチャしているお姉さんたちをいつも見かけた。流行っていたからなのかは、分からないけど。とにかく、その学校の女の子たちは、肌が綺麗で、お金持ちで、あぁ……良い食事をしているから「リッチ」なオーラで輝いていたのかもしれない。
その反対に、私は本当に貧しい子で……。
王家関係の学校だからこそ、少ないけれどレディと呼ばれる生徒がいる。その人たちの中にサムさんもいた。私がサムさんと初めて会ったのは、犬の「ちび」が子どもを産んだ日。「犬がいると学校が汚くなる」と犬を駆除するようお母さんに指示が与えられた。そんな指示に反対する人の中にサムさんもいた。虎のような見た目で、一番見た目が可愛くないオスのワンちゃんに「トラ」と名付けてサムさんは、その子を家に連れて帰った。でも、家族に許してもらえなくて、目に涙をいっぱい溜めながらトラを元の場所に戻していた。
「ワンちゃんを飼えないの。おばさん、助けてください」
高校三年生なのに、サムさんは子どもみたいに泣いていた。サムさんの階級に遠慮しながらもお母さんは手を伸ばして、ワンちゃんを受け取り慰めながらこう言った。
「お家では飼うことを、許してもらえなかったのですね。レディ」
「はい……どうしたらいいか分からなくて。ここに置いていったら、あの子が大きくなるチャンスがないかもしれないから、怖いです」
「大きくなるチャンスがない」という言葉を聞いて、お母さんは笑った。「死んでしまう」という言葉を怖がって、サムさんがあえて直接使わないようにしていたから。この状況を遠くから見ていた私は、歩み寄ってお母さんのシャツを引っ張りながら、素直にこう言った。
「お母さん……お姉さんがかわいそうだから、ワンちゃんを飼いましょう。お姉さんが泣いていると、綺麗になれないから」
その時一瞬、私のことを見たサムさんを覚えている。お母さんは王族のレディ(お母さんは王家にとても敬意を払っている)の涙を見たことと、私が飼いたいと伝えたこともあって、少し悩んでいたけれどすぐに許してくれた。
「では、私たちがワンちゃんを連れて帰りますね。でも、正直に申し上げますと、あまりお金がありません。もしワンちゃんが病気になってしまったら……」
「あたしが力になります」そう言った後、サムさんは私の方を向いてなくなりそうなくらい目を細めて満面の笑顔を見せた。
「おチビちゃん、ありがとうね」
ドキッ……
その瞬間、私の心臓は強くドクンと跳ねた。そしてサムさんは、手を伸ばして愛おしそうに、私の頭を撫でてくれた。素敵な女の子だな、と心の中で思っていたけど、たとえ涙が残っていても、笑ったら明るくて、綺麗だった。こんなに美しい人は、中々いない。
そうして、あの日から……サムさんは私のアイドルになった。
サムさんは何の学科に入ったのか、一番得意な科目は何か、身長、好きな食べ物、そんなことなら、雑誌に載っていたインタビューでほとんど読んでいるから、知ってる。サムさんは王家の人だから、多くのメディアから注目を集めてる。しかも、センスが良くて、頭が良くて、有名な家庭に生まれて、目が離せないくらいの美人。テレビの俳優みたいに目立つタイプじゃないけど、もしドラマに出演する機会があったら、きっと誰よりも上手くできると思う。
サムさんの夢は幼稚園のオーナーになること。それから、文章を書くことが好き。私はサムさんのことなら何でも知ってる。『フェーンデイ』という映画で、主人公のデンがヌイのことを好きになりすぎて、ストーカーみたいに見えるって話すシーンがあったけど、多分、私も同じ状態。
だから、ストーカーに見えないように、私がドキドキしていることがバレないように、目立たないようにしなきゃ。サムさんが知ってしまったら、良くない気がする。
「今日はレディに、自分から話しかけてみたら?お母さんが会いたがってたって伝えてみなさい」
お母さんはまだ諦めていなかった。翌日の朝も、家を出る前の私に、ちゃんとボスに話しかけて昔会ったことがあることを伝えなさい、と繰り返し言った。
「ヤダよ、お母さん」
「心配しないで。きっとレディは喜んで、トラのことを聞きたがるわ。それから、きっとお母さんに会いたがるはず。そうしたら、レディから色んなことを学ぶチャンスになると思う」
そう言って、お母さんは私にトラの写真を渡した。
「お母さん、トラの写真を持っていたんだ」
「携帯で撮ったの。上質な紙を買って、学校まで印刷しに行ったのよ。それをレディに見せなさい。仲良くなれるチャンスよ」
「でも……」
「ほら、やってみなさい」お母さんは、早く出発させようと私の背中を押した。まるでサムさんが外で待っているみたいに。「急いで。ここから会社はとても遠いでしょう。遅刻してしまうわ」
お母さんは、サムさんに話しかけることを一生懸命提案してきた。でも、それは簡単にできることじゃない。レディ・ボスが遠い存在ということはオフィスの誰もが知っていること。私も周りの人が怯えている様子に、今はちょっと影響を受けている。だからこそ、仲良くするなんて、難しいことだって感じるのかもしれない。
でも、正直なところ、胸の奥ではサムさんに話しかけて、自己紹介ができたらって考えてる。昨日話せた時に、昔、素敵な笑顔を見せてくれていたあの人の今の様子は、自分勝手でプライドが高い人ではなくて、ただ世間体に気を遣っているだけってことが分かった。
今日は、ずっと仕事に集中できなかった。すりガラスに囲まれて、わずかな光だけが漏れているレディ・ボスの部屋ばかり気になって。持ってきたトラの写真を見ていたら、ちょっと悲しくなってきた。もし、天国へ旅立ったあの子が気遣ってくれたら、何とかしてサムさんと話せるチャンスをくれるんじゃないかって期待して。
「トラ……もし私のことを大切に思っているなら、どうか今日サムさんと話せるように助けてね」
手を合わせて、トラのことを想いながら、そうお願いした。それから、午後六時まで仕事を続けた。みんなは家に帰って、今残っているのは私だけ。よし……サムさんはまだあの部屋にいる。
家は遠いから帰らなきゃいけないけど、すごく話をしたい。ドアをノックしてから中に入るなら大丈夫かな……悩んで、何もできずに時間だけが流れていった。そして遂に、席から立ち上がって、あの部屋のガラスのドアをノックしようと決めた。
コンコン……コンコン……。
「サムさん、失礼します。入ってもよろしいでしょうか」
返事がない……。
諦めようとしていたけれど、なぜだかこのドアを開けなきゃいけない気がした。開けてみると、サムさんは眠っていたみたいで、机の上に突っ伏している姿が見えた。ぐっすり寝ているのに邪魔してしちゃったって、ちょっと後悔の気持ちが湧き上がってきた。
帰ろう。でも心配だなぁ。サムさんがオフィスに1人でいるなんて、起きた時に寂しく感じるかもしれない……。
帰るか、ここに残るか迷っていたけれど、結局……帰ると決めて部屋を出ようとした。その瞬間、誰かのうめき声がした。今この部屋にいるのは、私とサムさんだけだ。
「助けて……」
「え!?」
「薬、もうない……頭が痛い」 そう言って、サムさんは力尽き床に倒れた。
「サムさん!」
第三章につづく
*ワイ
両手を合わせて行うタイの挨拶。
*トリアム・ウドム
タイの中でも特に優秀な人が通える高校のこと。
こちらはGAP Pink Theory配信版です。
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