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ギャップ・ピンクセオリー|第三章 ターゲット





第三章 ターゲット


 トラのおまじないは、あまりにも強かったみたい。その力は、サムさんが一番辛い時に二人きりでいられる機会をくれたのだ。今、私は部屋の真ん中にあるソファーにサムさんを連れていって、寝かせた。それから、優しい人みたいに振る舞って、飲んでいた片頭痛の薬と同じものを買ってきた。これはサムさんと仲良くなって、側にいられるチャンスだから。

「良くなりましたか?」

 私は、ソファーの横に座り込んでいた。ボスは電灯の光が目に入らないように、手で目を覆い隠して、眠ろうと努めていた。

「ちょっと休んだら、良くなると思う」


「サムさんが片頭痛持ちって、知りませんでした」


「知る必要ある?」

 だって、私はサムさんの大ファンだから……とは言わなかった。でも、何か話さなきゃ、と口を開いた瞬間、サムさんに遮られた。

「なんでこんな時間までいるのかしら?」

「えっと……あれです、仕事に集中しすぎて、気づいた時にはもうみなさん帰られていました」

「だからあたしの部屋に、入って来たのね」 サムさんは顔を覆っていた手を外して、茶色の瞳で私の目を見つめた。

「あたしのこと、怖くないの?」


「どうして怖がらなきゃいけないんですか?」

「そうね。どんな理由があって、みんなそんなにあたしのこと怖がっているんだろうね」

サムさんは、また手で顔を覆い、重い沈黙が流れた。私はどうしていいか分からなくて、ソファーの横にそのまま座っていた。

 寝ちゃったかな……。

 それから十分くらい経って、サムさんがちょっと動いた。

「なんで家に帰らないの? いつまでここにいるつもり? あたし、全く眠れないんだけど」

サムさんはまた手を下ろして、ため息をついた。

「あんたは一晩中、ここに座っているつもりなの?」

「もし私が帰ったら、サムさんを一人にさせてしまいますから」


「だから?」


「サムさんが寂しく感じると思って」

 その美しい人はもう一度私に目を合わせた。綺麗な目の奥で驚きの表情を感じる。それから、目線を外し別のところに顔を向けた。

「あんたは変な子ね。もし私が寂しく感じたとして、それが何?」


「理由はありません。ただ、友人としてここにいます」

「もう夜遅い。女なんだからさっさと帰って」 サムさんは高そうな腕時計を見て、こう言った。

「もう八時になったの?」


「サムさん、帰れますか?」


「ここで寝る」

「それは良くないです」 私は反論した。

「サムさんの家はどこですか? 送ります」

 美しいその人が、起き上がろうとしたので、手を貸した。その瞬間、お互いの顔がとても近くなって、サムさんは慌てたように私から離れた。

「あんたはどうしたいの? 邪魔しないで。あたしはまだ頭が痛いんだから」

「家で寝た方がいいです。私が送りますから」

「嫌だ。ここで寝るって決めたの」


「じゃあ、いいです。私もそうします」

 互いに譲らない私たちは、一瞬、強い眼差しで見つめ合った。私から目を逸らしてため息をついたサムさんは、自分のいう事を聞かない私に怒ったみたい。

「あたしの家がどこか知ってるの?」


「教えてください」

 大ファンではあるけれど、私はサムさんの住所を全く知らない。そんな個人情報は、どんな雑誌やニュースにも載っていないもん。まぁ、いっか。何にせよ、美しいこの人を絶対に家まで送り届けるって決めたから。枕も、ベッドもない状況でサムさんを寝かせるなんて、あり得ない。


「運転できるの?」

「いいえ」

顔色悪く、少しイライラしている様子のサムさんを見て、私は即座にこう付け加えた。

「でも、タクシーで帰れますよ。どこに住んでいるか伝えることができたら十分ですから」

 どうしても家まで送りたかった私は、最終的に華奢な彼女をタクシーに乗せることができた。サムさんの家は、三階建のよくある一軒家だった。なのに、誰も一緒に住んでいないみたいで驚いた。

「一人で住んでいるんですか?」

 タクシーの中からサムさんの家を眺めながら、他に誰かいないかなって探してみた。正直もっと大きくて豪華な、ドラマに出てくるお城みたいな家で暮らしていると思ってたなぁ。

「うん」


「サムさんは一人暮らしなんですか?」

「そうね」

 私はタクシーを降りて、サムさんを家の中まで送ろうとした。でも、その美しい人は私の事を制して、不満そうにこちらを見た。

「ここまで」


「でも……」


「家に着いたわ。もう何も喋らないで」 そう強く戒めてから、また私のことをチラリと見た。

「あんたも家に帰らないと。携帯を出しなさい」

「え?」

「番号……〇六二の四四六……」

 びっくりした。でも、そっけなく一方的に番号を言い始める姿を見て、急いで自分の携帯に番号を打ちこんだ。

「電話して」


「え?はい……」 高圧的に見つめられて、つい言われるがままに返事をしてしまった。それから、すぐに美しいその人の携帯から音が鳴り、画面を確認してから納得したように頷いた。

「着いたらメッセージ。無事に帰ったことが分かるから……タクシーのナンバープレートの写真も撮りなさい。それも送って」


「はい」

 返事をすると同時に、サムさんは私をタクシーに押し込めようと背中を押してきた。それから、気だるくこめかみを片手で押さえながら、私が見えなくなるまで見送ってくれた。





 あぁ……今日は色々な話をして、しかもサムさんの家へお見送りまでできた。

 最高!

 家に帰った時の私は、誰が見ても幸せとわかるくらいの笑顔だった。あぁ……私の幸せな気持ちが溢れて、どこまでも伝わっているような気がする。普段は、鬱陶しく感じる蚊にだって今なら刺されても、骨まで食べられちゃったとしても幸せかもしれない。


 今も心臓がバクバクしている。

「どうした? 嬉しそうで、なんだかおっかないな」

 ぼーっと夢見心地だったのに、目の前で急に誰かさんの低い声がしたから驚いた。私は、その誰かさん、つまり隣の家に住んでいる幼馴染に笑いかけた。

「ノップか…… 私を待っていてくれたの?」

「そうだよ。結構長く、待ってたんだぞ。あの会社はお前にどれだけたくさんの仕事を頼んだんだ?」 端正な顔立ちをした幼馴染は不服そうな顔で私を見た。

「俺も、お前の母さんも、すごく心配してたんだ」

「私、お母さんには遅くなるって伝えたよ。で、元気にしてた? 仕事が始まってから会えてなかったよね」

「だろ? だから会える時間を見つけて、今ここにいるんだ。モンが好きな蟹のバミー*も買って来たよ。まだ何も食べてないだろ?」

「まだ食べてないよ」

 今日は私にとってすごくラッキーな日だ。ずっと憧れていた人と居られて、いっぱい話せた。それに家に帰ったら、大好物まで食べれるなんて。私は、お腹が空いていたのもあって、買ってきてくれたバミーを勢いよく食べ始めた。それを見て、ノップが少し笑っているのに気がついて、恥ずかしさで顔を逸らした。

「そんな風に見ないでよ。食べづらい」

「モンがご飯を食べる姿を見ることが俺にとって幸せの一つなんだ。仕事を見つけて、給料がもらえるようになってよかったな。これからはモンが好きなもの、いっぱい食べさせてやるから」

「まずは会える時間を見つけないとね。仕事忙しいでしょ? ここ最近全然会えなかったよね」

「忙しいけど、絶対に時間をつくるから」 ノップの真剣な声に頷いてから、なんて言ってあげたら良いかわからなくて、少し微笑んだ。

「そういえば仕事は上手くいってるのか? お前が仕事をすごく楽しんでるってお前の母さんからたくさん聞いたんだ。遂に、お前のアイドルと働いてるんだって?」


「うん」

お母さんはお喋りだけど、ノップなら私のことをよく知っているから大丈夫。

「今日帰りが遅くなったのは、そのアイドルのことでなの。サムさんの体調が悪くなって……」

「モンが看病してあげたのか」


「薬を探して買ってきただけ。でもサムさんの役に立てて幸せだな」


「だからそんなに嬉しそうに帰って来たのか。もしサムさんが男だったら、絶対に嫉妬してる」

 嫉妬の言葉を聞いて、危うくバミーを喉に詰まらせるところだった。それから、ノップの顔を見て、少し笑った。ノップが私に友達以上の気持ちを抱いているって、ずっと前から気がついてた。


 でも、否定したくない。誰のことも傷つけたくないから。特に、大切な幼馴染のことは。

 私が生まれた時から、ノップは隣の家に住んでいた男の子で、幼い頃からよく遊んでくれた。私たちは小学校から高校まで同じところに通っていたけれど、大学から、それぞれの道に分かれた。でも、ノップは私と同じ学校に行きたかったみたい。入学試験の点数が足りなくて、叶わなかったけど……。一方で、元々頭が良いタイプじゃなかった私は、どうしてもサムさんと同じ大学に入りたくて必死に頑張った。


 結果、夢が叶って合格。その上、同じ会社で働いている。

 高校生の時、ノップと付き合いなって周りから何度も推されて、何も言わずにほっといてたから、もしかしたらノップは私と付き合ってるって勘違いしているのかもしれない。

 ちゃんと断らなくちゃいけないかな。でも、そうしたら大事な友達を傷つけちゃう。はぁ……。


「どうした?」

「あ、いや。色々考えてただけだよ」


私はバミーを食べる手を一旦止めて、水を飲んだ。それを見ながらノップが少し笑った。

「甘い言葉をかけても、いつも反応してくれないね」


「なんて返したら良いかわからないから……お腹いっぱいで眠くなってきた。もう夜遅いよ。また今度話そう。明日も私、朝から仕事だから」


「家から会社まですごく遠いんだって?」


「うん。何回も乗り換えがあるよ」


「大丈夫なのか? 仕事は始まったばっかりだから、給料もそんなにもらえないだろうし」

「心配しないで。今より少なくなったとしても大丈夫だから」 それから続けてこう答えた。

「これからお給料も上がっていくから。サムさんのように仕事ができるようになったらね」


「俺もいつか必ずサムさんに会いたいな」


「会ってどうするの?」


「モンはサムさんのことが大好きだから、どんなにサムさんの職場が遠くても、同じ所で働こうとすると思いますって伝えて、クビにしてもらう」

「絶対に会わないで!」

 どんなに遠くても、たとえそれが世界の果てだったとしても、私はサムさんと同じ会社に入りたい。これは大学生の時から抱いている目標だ。毎日、会社に行くまで移動だけで疲れてしまうけれど、あの冷凍庫(サムさんのいるオフィス)が見えるだけで、頑張れる。

 でも、今日は……その部屋からなんだか、重い空気を感じる。

「もういい。辞めてやる! 俺たちみたいに社内恋愛をするなよ!」 そう男性社員が叫ぶ声が響いて、あの部屋のドアが開いた。男性は首から下げていた社員証を床に叩きつけて、踏みつけ始めた。

「くそっ! 何が社内恋愛禁止だ。ご飯を食べたり、眠ったり……世の中でみんなができることがうちの会社では、どうして許されないんだ!」

 叫び声が響き渡って、オフィスは一層静かになった。それから、あの部屋から女性社員が一人、手で顔を隠しながら出てきて、恥ずかしそうに男性の背中を押しながら足早に去っていった。

「早く、行こう」



 オフィスに再び重苦しい静寂が流れる中、私を面接した人事部の先輩が何か資料を持ちながら、急いでサムさんの部屋に駆け込んだ。

「また、レディ・ボスの呪いよ」

 隣の席で先輩が同僚に囁いている声が聞こえてきた。

「別に付き合ったっていいじゃない。あの二人は経理部でも購買部でもないんだから」

「多分揉め事を起こしたくないのよ。社内恋愛だと会社の運営に影響があるかもしれないじゃん。例えば、別れて仕事が手につかなくなっちゃうとかさ。でも、こんな風にクビにすることはないよね。誰も社内恋愛できなくなっちゃう。」

「レディ・ボスはあまりにも冷たすぎる、本当に」

 人事部の先輩が戻ってきて、囁き声は止まった。先輩は、心配そうな表情をしながら、私をチラッと見て、足早に去っていった。今の素振りは何?ちょっと怖くなってきた。


 どうして先輩は私のことをあんな風に見たのかな……。


 プルルルル……。


 突然、席の電話が鳴った。さっきこっちを見ていた人事部の先輩からみたい。受話器を取ると、先輩は戸惑った様子で話し始めた。

「モンちゃん、何か悪いことでもしたの?」

「私は何かしてしまったのでしょうか」

「私もよく分からないけど、さっきレディ・ボスがモンちゃんの履歴書を持ってくるように頼んだの。だから聞いてみたんだけど。まだ入ったばかりで研修中なのに、なんでターゲットになっているのかしら」

「全く心当たりはありません」

「先に知らせておいた方がいいと思って電話したの。レディは後でモンちゃんを呼び出すと思うから。気をつけてね」

 人事部の先輩が電話を切った後、重いプレッシャーが私にのしかかってきた。しばらくすると、また電話が鳴り出したのに、今回はなんだか出ることができなくてじっとしていた。その様子を見ていた同じ部署の先輩が、我慢できずに声を掛けてきた。

「電話に出て」


「はっ、はい」

 出ようと思っても、きっとこの電話は冷凍庫のあの人からだろうって思うとすごく怖くて、動けなかった。周りの先輩たちは、遠慮がちに私の様子を見守っている。その空気に耐えかねて遂に電話を取り、丁寧に声を出した。

「はい」

「あたし、サムよ……ちょっと私の部屋に来なさい。用があるから」

 特徴的な鼻にかかった声に、うっとりしていた。でも今回は、それだけじゃなくて怖さも感じてる。だって、あの冷凍庫に呼ばれたから。私は席から立ち上がり、少し身だしなみを整えてから、ゆっくりとあの部屋の方に歩き出した。先輩たちは最初は気にしていなかったけれど、私が冷凍庫に行くって気がついて驚いたみたい。

「レディに呼び出されたの!?」

 泣きそうな顔で頷く私に、みんなは状況を察してくれたみたい。まるで隕石の衝突を阻止するヒーローが、ロケットに搭乗する時みたいに、みんなが優しく手を振ってくれた。

 まぁ、いいや……私は何も悪いことしていないから、大丈夫。私が知っているレディは優しい人だもん!


 コンコン。


 ガラスのドアをノックして中に入ると、履歴書を確認しながらサムさんがこちらに目を向けて静かな声で言った。

「ドアを閉めなさい」

「はい」

 指示通りにドアを閉め、ゆっくりとデスクの方に近づいた。サムさんは、持っている履歴書と私の顔を交互に見比べていた。それから、目を細め、注意深く私のことを見ながら何か考えていたらしい。

「素直に言いなさい」


「はい?」

 真剣な表情でサムさんは履歴書を閉じ、目を離さずに腕を組みながら、穴が開きそうな勢いで私をじっと見つめた。

「私たち、昔会ったことがあるでしょう」


第四章につづく





 

*バミー

タイ料理で、タイ風ラーメンの一つ。


 

こちらはGAP Pink Theory配信版です。

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