第四章 仲良し
私たちの間には、静けさが漂っていた。私は、ずっと昔に一度だけ会ったことがあるって話すかを悩んで、沈黙を貫いていた。きっとサムさんは、お母さんのことを覚えているはず。でも、側にいた小学四年生の私のことなんて忘れていて当たり前だ。
どうしよう……。
トラ……ここまで応援してくれたんだから、もう一度だけ私に力をください。そうしたらきっと、来世は素敵なところで過ごせるよ。サムさんに言うべきか言わないべきか教えて……?
言う……。
言わない……。
トラのことや昔の話をするか悩んでいたら、サムさんは私の答えを待たずに、さっさと話し始めた。
「もういい。会ったことがあるかないか、なんて大事じゃないから」
私はサムさんの少し鼻にかかった声を聞きながら、そのまま黙っていた。どういうこと?……大事じゃない?
じゃあ、どうして履歴書を確認して、私をこの部屋に呼び出したんだろう。
「まず、あんたが人に近づこうとする方法、あたしは好きじゃない」
「え?」
「なぜあたしに良くしようとするのか理由は分からないけど、困るの」 両手を組んで机の上に置いたサムさんは、じっと私の目を見た。
「薬を買って、家まで送って。そういうことをしたからって私たち、仲良くなったわけじゃないから。理解してくれるかしら」
「はい」
「片頭痛のことも誰にも話さないで。それだけ。行って」
何か大きな失敗をしてしまった時みたいに、心臓がズキッとした。良いことをしたと思っていたけれど、結果は逆だったみたい。私は部屋を出ようと、振り返った。でも、突然引き止められた。
「待って」
「……」
「昨日の夜、家に着いたら連絡をするように言ったじゃない。なぜしなかったの」
「電話をする勇気が出ませんでした」
私は正直に答えた。サムさんは首を傾げて、意味が分からないと言いたげに私を見た。
「なんで?」
「馴れ馴れしいと思われたくありませんでした」
「……」
「では、失礼します」
今日はずっと気分が悪かった。いつも幸せな気持ちで働いていたのに、今は世界が灰色に見えて、憂鬱でやる気も出ない。悲しさと、なぜあんなことを言われたの?という気持ちで、一日中あの冷凍庫の方を見られなかった。そして、仕事が終わった瞬間に、私はオフィスからすぐに飛び出した。もし昨日みたいに、部屋であの人の体調が悪くなったって、もう知らないんだから。
そんな気持ちで帰ろうとしていたら、サプライズが待っていた。
「よっ! 頑張り屋さん!」
「ノップ!」
ノップは会社の前で待っていたらしく、手を大きく振りながら声をかけてきた。私は驚いて、幼馴染を見つめた。彼の笑顔を見ると、こんな悲しい日でもちょっと元気を取り戻せる。
「どうしたの、今日。寂しがってる犬みたいな顔してる」
「ちょっと疲れただけだよ」
「仕事でなんかあった?」
「そうね」
目の前でキラキラと笑う幼馴染を見ながら、驚きつつ質問をした。
「どうしてここにいたの? もう仕事は終わった?」
「今日はお客さんの所へ訪問する日でさ。上司が会社に戻らなくてもいいって言ってくれて。ここの近くだったから寄ったんだ。モンの会社、初めて見たよ。大きいなぁ」
「このビルはたくさんの会社が入ってるの。ビル全部が私の会社ではないよ」
「でも高級な感じがする」
「高級なのは会社だけ。私は相変わらずバスで通ってるし、家を借りて暮らしてる」
「今日は一味違うよ。一緒に帰る友達がいるからね。んで、その友達は俺!」
結果的に、今日はそこまで悲しまずに済んだ。少なくとも、渋滞で中々来ないバスを待っている間も、携帯で音楽を聴かなかったし、移動中はノップが話しかけてくれたから、寂しくなかった。仕事終わりの時間は道が混雑していて、みんなをイライラさせる。クラクションの音が大きく響き渡っている様子は、まるで渋滞に捕まった人たちの気持ちを代弁してるみたい。
「昨日はニコニコしていたのに、なんで今日はこんなに悲しそうなの? 中国のお菓子食べる? 結構有名なところから買ってきたやつだぞ」
ノップはいつも気遣ってくれる。彼は丁寧に箱の蓋を開けてから、お菓子を渡してくれた。確かに、このお菓子はすごく美味しい。
「本当だね。美味しい」
「うまいものを食べると、モンは気分が良くなるだろ。だからお土産に買ってきたんだ」
「私の気分が悪いなんて、なんで思ったの?」
「渋滞できっとイライラするだろうってね」
「気にしてくれたんだ」
ノップは、子どもの頃から変わらない。私の好きなものや嫌いなものをよく分かっていて、喜ばせようと色々なことをして、いつも気にかけてくれる。私にとっては曇った空を、晴らしてくれるお日様みたいな存在。
「今日はちょっとサムさんに叱られちゃって」
「どんなことで?」
「それは……」
なんて説明したらいいかな。私にとっては恥ずかしい理由だから言いづらい。それに話したら、ノップはきっとサムさんのことを嫌いになっちゃう。
「仕事でミスをしたの」
「そっか。それで叱るのは普通のことだよ。それが上司の仕事だもんな」
「うん」
ノップの言葉に、私は頷いた。それから、目を休ませようと窓の外へぼんやり目を向けた。もう辺りは暗くなってきていて、道で立ち往生している車たちのライトが、まるでディスコみたいにピカピカと眩しく光っている。
「下に見える黄色の車、カッコいいな……フォード・マスタングだ。俺もいつか欲しいんだ。バンブルビーを思い出すだろ?」
「ん?」
少し身を乗り出して、バスの外を見ると、隣の車線にノップが話している車を見つけた。
「目立つね。変身できるかな」
「無理だろ。スッゲーカッコいいけど、めっちゃ高くてさ。お金があるなら、あの車を買って、モンと旅行したいな」
「優しいね」
そんな言葉を聞きながら、興味津々でその車を眺めていた。しばらくすると、見ていた車の助手席の窓ガラスがゆっくりと下がって、持ち主が私に目を合わせてきた。
もちろん。それはよく知っている人だった。
「ハンドルは左なのか。輸入車だね」
何も知らないノップは、まだその車を見ながら無邪気に褒め続けていた。一方で、私は別の車に乗っているのに、あの人に失礼なことをしているような気持ちがして、慌てて目を逸らした。
「あんまり見ない方がいいよ。運転している人が気まずいかもしれないじゃん」
「気まずく思う訳ないだろ。もし俺があの車を運転してたら、むしろ俺のことも見せたいなぁ…… 運転しているのは女、遠くから見ても美人だ」
本当に美人。ただ綺麗なんじゃない、それはもう、ものすごく美しいの。まずい、この道にはこんなにも車がいるのに、私ったらどうしてあの車に注目しちゃったんだろう。それに、なんで……よりによってあの車はサムさんの車なの?
今日あんなことがあったばかりなのに。私が友達とサムさんの車をじっと見ながら、何か話してるなんて、サムさんはきっと気に食わないよ。
ピロリン……。
私の携帯からメッセージの通知音が鳴った。取り出して確認しながら、驚きすぎて思わず目をぎゅっと閉じた。昨日、携帯の番号を交換した時に、サムさんはLINEの友達になったんだった。
ボス:あたしのことを話しているの?
ボス:他人のことばっかり気になるのね
ボス:今、あたしを見なさい
そんなメッセージを見て、私は顔をあげた。そして、黄色の車を運転しているあのオーナーさんに目を合わせて、愛想笑いをしながら頷いた。その様子を見たノップは、驚きながら私に尋ねた。
「誰に頷いてるの?」
「サムさんに」
「どこ?」 ノップははしゃぎながら、興味津々であちらこちらを見て、あの人を探した。
「このバスに乗ってる?」
「あの車。ほら私たちが話していた……」
「はぁ?!」
すぐにノップはサムさんの方を見て、車に向かって手を振り、続けて丁寧なワイで挨拶をした。サムさんは何も返さずに、ただ私たちをじっと見つめて、窓を閉めた。すると、ちょうどその時、信号が赤から青に変わった。
行っちゃった……。
「カッコいいなぁ!モンのサムさんはバンブルビーの車に乗っているのか。それでいて金持ちで、頭がよくて、美人。こんな完璧な人をナンパする奴は勇者だよ」
「もう彼氏がいるから」
「同じレベルの奴なんだろ」
「うん」
そうだね。サムさんは同じレベルの人と付き合ってる。私は一新入社員だから、たとえ良いことをしようとしても、馴れ馴れしいって思われてしまう。これからは、ただ静かに、遠くから見守ろう。
知り合いとしてでもなく、ただロールモデルとして眺めて、応援する。それが私にできる限界。
でも……。
想像より、状況は良くなかった。その日の夜、メッセージの通知で携帯が何度も振動していた。ちょうど私がベッドに横になって、枕を抱きしめた時と同じタイミングで。だから、携帯の光が眩しく目に入ってきた。
ボス:(スタンプ)
ボス:(スタンプ)
瞼を擦りながら、携帯を手に取った。それから、メッセージが見えた時に、少し混乱した。私、寝ぼけているのかな……サムさんからのメッセージだ。
ボス:(スタンプ)
少しずつ読み進めると、寝ぼけてたわけじゃなかったと理解した。慌ててベッドに座り直して、携帯を目線の高さまで上げた。どうして、メッセージがスタンプばっかりなのかな。なんて返したらいいか決めてないのに、トーク画面を開いちゃった。しかも既読をつけたら、サムさんまで静かに……。
変だよ……。
どうすればいい?
モン:サムさん
そう、私が送ったのはそれだけだった。そして、相手の既読がつくことを待っていた。反応が知りたくて、しばらく待っていたと思う。
ボス:(スタンプ)
なにそれ、意味分からない!
もしかしてまた、偏頭痛になったのかな。だからきっとメッセージを書かないで、スタンプだけで連絡してきたんだ。私は心配になってきて、午前一時だけど電話をかけることにした。あまり待たずに、私をいじめたあの人がいつも通りの声で電話に出た。
「こんな時間に電話してきて、なんか用?」
「えっと……。」 私はびっくりした。
「スタンプがいっぱい送られてきたので、何か手伝ってほしいことがあるのかと思いました」
「なんであたしがあんたにお願い事があるって思ったの?」
「だって、サムさんからスタンプがいっぱいきたから……」
もう電話をしたことを後悔し始めていて、あまり声を出せなかった。泣きそう。誰か助けて。どうしよう。こんなに心配しなくても、よかったんだ。
「ならスタンプで返事をすればいいじゃない。電話をするなんて……あれ?あたしの番号をメモしたってこと?馴れ馴れしい」
びっくりし過ぎて、慌てて電話を切ってしまった。部屋の奥に携帯を投げそうになるくらい怖い。数分経つと、さっき話していた人からの電話が、繰り返し鳴り始めた。
やばい、どうしよう。
「もしもし」
「なぜ電話を切ったのかしら」
「えっと……サムさんに迷惑をかけてしまったと思って、驚いてしまって」
「そう、もう一時なのに迷惑よね。覚えておいて」
「はい」
「なぜそんな簡単に『はい』って言ってしまうの?」
「どうしたらいいんですか? 私は何をしても間違っているみたい……これ以上悪者になりたくないです」
何も考えずに言っちゃった。もう泣きたい。電話の相手は私の今にも泣きそうな声が聞こえたみたいで質問してきた。
「その震えている声は何? 叱っている訳じゃないのに」
「サムさんは、私が馴れ馴れしいって注意したいのでしょう? だからこんな時間に電話をかけ直したのですよね。私はただ、サムさんが頭痛でメッセージを書けないのだと思っただけです。なので、仲良くなりたいなんて気持ちで電話していません」
「……」
「死にそうなくらい頭が痛いのかなって、心配して、役に立ちたくて電話したのに、結局上司に馴れ馴れしいって叱られて。お礼の一言すらありません。どうしてこんなに意地悪をするんですか」
つい、子どもみたいに泣いてしまった。今日はずっと不安で、押し潰されそうだったから。バスに乗っている時も、噂話をするな!って睨まれていたし。正直に言うと、サムさんと、上手く接することができない。私に何を求めているのか分からないから。しばらくの間、サムさんは黙っていた。それから、早口で素っ気なく、そして簡潔に言葉を発した。その言葉は、私をもっと困惑させた。涙が溢れて息ができないくらい。
「おやすみ」
サムさんが発したのは、たったそれだけだった。それだけで、電話を切られた……。
夜中にスタンプを送ってくる人がいたから、午前一時になっても起きていたのに、その人に泣かされて、挙句の果てに「おやすみ」の一言で電話を切られた。
世の中には、こんな人がいるの!?
第五章につづく
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