第二十八章
口紅
アニンという存在を欠いた私の人生は、薄っぺらい日常そのものだった……世界は暗く、茶色がかって見え、私の目に何か付いているのではと疑いたくなるほどだった。アニンがいなくなってからの一年間という時間は、気が遠くなりそうなほどゆっくりに感じられた。
今思うと……。
私が今まで、ここに在り続けているのは、アニンを待つために他ならなかった……。
「プリック、私宛ての手紙は無いかしら……?」
前翼宮に届いた封筒や郵便物を、お気に入りの鞄の中に詰めて歩いているプリックに、私は声をかけた……ロンドンにいる誰かさんから四日前に届いた手紙を読み終えたことも、プリックが新しい手紙を持ち合わせているはずがないことも、、彼女が私の望む返答をしてくれないことも、すべて理解しながら、それでも私はプリックに尋ねた。
遠い街のどこかにいる人のせいではない……アニン王女は今もアニン王女のままだ。手紙を書き、届けるという習慣。その習慣は、六年前から今に至るまで変わらずに続いている。七日分の経験を紙という媒体に書き起こして、週末になると私やプリックに送り届けてくれる、そんな習慣。恐らく、こうしている今も、アニンは手紙を書いてくれているのであろう。
変わってしまったのは誰でもない私で、何の意味もない、無いものねだりばかりを繰り返すようになってしまっていた……。
それには、近頃よく身に降りかかる、あの体験も影響しているはずだった……六年前とは大きく変わってしまった今、私が直面している悲惨な現実がある。私の気持ちは今まで以上に、心の拠り所を、頑張れる理由を探そうと必死になっているのだと思う。
私とアニンの愛の巣である松宮殿、それに意識を取られないように注意しても……寝室の窓から見える屋根裏付き一階建ての木造の宮殿は、紛れもない現実だった。ぼやけていく記憶の中で、断片的な描写は瞬時に切り替わり、過去の儚い瞬間は、僅かな一瞬としての輝きしか発さない。しかし、それは感情の奥底に、記憶とは比較にならないほど強烈に存在を残している。
たとえ、そんな至福のひと時としての過去は幻のような時間だったと、脳に錯覚させることが出来たとしても……私の身体は、アニンから毎晩のように優しく刻まれた幸せの象徴を、決して忘れることが無いだろう。
「もし、ピンさんが今まで以上に手紙を欲しているようでしたら……」プリックは一度辺りを見回し、天を仰ぐと、突然、私を馬鹿にするかのように、一瞬だけあかんべえをして見せた。私が気づかないとでも思ったのだろうか。「今まで以上にたくさん手紙を届けてもらうよう、手紙に書いて伝えるしかありませんね」
「何の話よ……」私はプリックを睨みを利かせる。「そんなことをしたら、あなたの主を満足させてしまうじゃない」
「え。レディ・ピンは既に、お心をお渡しになられのではありませんでしたか……?」
「えーっと……」
「お心だけでなく、おから……」
「プリック!」
なんと弁えのない子かしら! プリックは、私とアニンの本当の関係を知る、唯一無二の存在だ。私が今のように少しでも隙を見せようものなら、こんな風にして、私のことをからかおうとばかりするのだ。
もし、アニンにこのようなプリックの態度を手紙で告げ口したとしても……アニンはプリックを叱ることはなく、むしろプリックはありのままで良いなどと言い、後押しをしようとさえするだろう。
「大変申し訳ございません、レディ・ピン」プリックは頭を下げ、形式上は謝ったように見せかけるのだが、その意地の悪い目は今も輝きに満ちている。「プリックの、いけないこの口め!」悪童は自分の唇を、何度も優しく叩くような仕草を見せた。