第二十九章
初めての世界
「ピンさん、その……少しでも考えを改めようとは思わないのかい?」
「何のことですか、タニット?」
ピンが顔を上げると、そこには日によく焼けた肌を持つ顔の濃い青年がいた。大学時代からの学友であるタニットが、茶色の長机の上に山積みになった資料に目を通している自分に声をかけたのだった。ピンが声のした方に目を向けると、タニットはいつものように視線を背けてしまい、少しはにかみながら、彼女からの問いかけに小さな声で答えた。
「ここで正社員として働くことについてだよ」
タニットは、ピンの表情を恐る恐る伺いながら返事をしているようだ。先ほどの彼の言葉が、いつも彼女に対して聞いているのと同じ、とっくに聞き飽きたような質問だったので、煩わしい思いをさせてしまったのではないかと気を揉んでいるようだ。
「改めてどうしろというのよ、タニット」半年を過ぎた今となっても……彼女の意向は、石のように動かないままだ。「私は、今の状況が最善だと思っているわ」
ピンは少し微笑んだ。彼女が口にした言葉は、タニットの誘いを断わるためだけの口実ではなく、実際に、彼女は心の中で強くそう感じていた。確かに、彼女が叔母の繋がりを頼りにして今の仕事にありついたことは事実だ。けれど、この『そよ風*』という名前の出版社に就職してから気づいたのは、研究論文や小説の翻訳に携わるこの仕事が、思っていた以上に自分の性分と合っていたということだった。
その理由の一つ目は、この出版社のオーナーにして、パッタミカ王女のご親友に当たられるパカーパンさんが、蓮宮殿で自分の好きなように翻訳のお仕事をすることを彼女に許してくれた点にある。唯一の条件は、提出期限を守ることだけ……ピンが期限を守って納品できた案件の数に合わせて、報酬を受け取るという仕組みだった。
パカーパンさんは彼女を実の姪のように可愛がり、その翻訳の技術をべた褒めするだけでなく、仕事として割り振られるのは、常に、興味深い文学作品に関するものばかりなのである。
理由の二つ目は、ほかの誰よりも早く、西洋人の書いた小説と向き合うことができる点だ。制限のない想像の世界での、高揚感をもたらす冒険の描写。悲しい離別の描写。何も見えない暗闇の中で、手段を何も持たない主人公がそれでも諦めずに希望を持つ描写。小説作品の中に現れる、数えきれない量のそんな描写に、彼女は子どもの頃のように心を躍らせていた。
そして、最も重要な、最後の理由は……。
この出版社の名前が、どこかの誰かさんのことを強く想わせてならない、ということだ……。